本当はすごい私

無限なる意識と「無いもの」


「無いもの」、「全てのもの」の「空」から形が生じる

無限なる意識の本来の状態は、静寂と不動である。「空」と言われることもある。これは、「何もない」、空っぽという印象を与えるが、それはとんでもない誤解だ。静寂と不動の中には、あらゆる可能性が潜在している。我々は形ある領域を経験しており、現実は、目に見える「もの」で決まると思っている。だが実を言うと、現実は目には見えない、「無いもの」で決まっている。見たところ空白な部分(無いもの)が間になくして、「もの」が存在できるだろうか?「あるもの」を定めるのは「無いもの」である。

我々は、「無いもの」、つまり、無限なる全ての可能性、静寂・不動のバランスと愛の「空」から生じた一時的な形態に過ぎない「もの」を、崇拝し、欲しがっている。音が存在できるのは、音がやってくる源であり、帰っていく先である静寂(無いもの)のためである。音というのは、我々が「聴く」ものとして解読する振動の周波数であるが、静寂なくしてどうやって定義することができるだろうか?静寂の中でしばし座って見てほしい。

「無いもの」に思える静寂の中には、あらゆる存在、あらゆる可能性が潜んでいる。そこにこそ、我々に語り掛け、自ずと知ることをもたらす「静かな声」の発信源がある。それは、我々を「故郷」へと、本来の我々へとつなぐ接点である。しばらく静寂の中で過ごしてから、何か言葉を発してみよう。その言葉で何をしたかといえば、静寂を破ったのである。別の言い方をすれば、全ての可能性、静寂・不動の空、無限なる一つから、一つの可能性(言葉、想念)を引き出したのである。話しているときに、話を止めると何が起きるだろうか?一つの可能性(音声)が、全ての可能性(静寂)へと融合して帰っていく。

「肉体」の形が「死ぬ」ときも同じことが起こる。肉体は分解・消失し、「無いもの」(「全てのもの」でもある)へと融合する。あらゆる可能性とは、無限なる一つが全てであり、無であることを意味する。あらゆる場所が、どこでもないことを意味する。あると同時に無いこと、すると同時にしないこと、できると同時にできないことを意味する。これは一見して矛盾しているようだが、矛盾ではない。あらゆる可能性が異なる表現をしているだけである。

この表に現れていないあらゆる可能性こそが、我々の本来の状態であり、全ての存在にも充満している。従って、無限なる一つの表れである我々も全ての存在に充満している。「神」とか「天国」について考える時、空を見上げてしまいがちであるが、そんなものではない。創造は、段階を積み上げて行く高層ビルや整理ダンスのように築かれてはいない。それは同じ空間を共有する異なるエネルギー密度(あるいは周波数)であり、テレビ局やラジオ局が互いに干渉することなく同じ空間を共有しているのと同じである。あまりにも周波数が近接していると干渉することがあるが、操作者が我々の現実に干渉できるのも、彼らの周波数が我々の周波数に近接しているからである。

表に出たものも出ていないものも、あらゆる可能性は、我々が今まさに立ったり座ったりしているところに存在している。ただし、無限なる意識の基本的な状態は、表に出ない状態で、静寂にして不動のあらゆる可能性である。それはいつもそこに存在し、全てに浸透しているが、「もの」と形態の世界では、大半の人々が「あるもの全て」の静寂の根源を聴いてはいない。表に出た錯覚の騒音にばかり耳を傾け、無限の可能性ではなく、有限の可能性の人生を生きている。

表に出ていない「一つ」の状態こそが、我々が本当の意味での愛を見出すところであり、だからこそ、真実は無限なる愛のみであり、他は何もかも錯覚なのである。静寂にして不動の「空」(あらゆる可能性)だけが真実である。他は全て、潜在的な可能性の中から表に出されたものであり、錯覚の「もの」の世界である。


2018-11-26 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

望むものを創造する


「自分が望むものを創造しようとするときに疑いが起こるが、それはどうしたらいいか」と、ある人から尋ねられました。カルマ(宿業)というものが、意志に反してその人の人生を形成していて、それに対して人はどうする力もないと信じている人がいます。それではカルマは、この創造する行為とどう関わっているのでしょうか。

魂の進化のある段階においては、因果応報というカルマの「直線的概念」は役に立ちます。ある時期には、自分のまいた種は自分で刈るということを信じることは有益です。それと同じように、宗教的戒律の絶対的正しさを信じて忠実に実践することも、世界中の文化にみられます。それは、神とのつながりを経験するために歩む、安全な道の一つなのです。宗教の戒律に従っているときには安心していられるので、この方法は多くの人にとって非常に効果があります。

けれども、戒律だけでは満足できない日が、やがてやって来ます。人は、神とのもっと直接的なつながりを体験したいと望むようになります。そこから先に進む前に、それまでに自分が受け取ったものに対して、感謝することを忘れないでください。誠意と熱心さを持って歩んできた道に、あなたは多くを与えたし、またそれから多くを受け取りました。それは素晴らしい旅路でした。けれども最終的には、人は自分自身で、神とは何かを見つけなくてはならないのです。

カルマについての私の考え方は、ほとんどの人の概念とかなり違っています。通常言われるカルマは、本当は大きな拡がりを持つ真理に、狭い解釈を与えたものです。私にとってのカルマの概念は一連の爆発で、それはあなたが誕生体験を通して、地球界で人生と呼ぶものへと勢いよく飛び込んでいくときに始まります。

あなたはタンポポのようなもので、あるときには黄色い顔をし、次の瞬間には白い球となります。それは個々別々の種でありながら、まだいっしょにいる状態です。やがて風がさっと吹くと、「ポン」とはじけて、それぞれの種の旅が始まります。種は風の吹くまま、あちこちに飛び散っていきます。ふわふわと飛んでいくものもあれば、落ちてしまう種もあります。けれども、その「ポン」が、私の話している瞬間なのです。それは爆発です。直線的な動きではなくて、爆発なのです。あなた方の始まりと旅路はこのように見えます。

この「爆発」は、あなた方がこの地球という惑星で行うことを選んだ、すばらしい実験の始まりなのです。あなたは自分の道を歩きながら、自分のいのちを感じ、それを生きるだけでなく、周りの全てから、同胞である全ての人間たち、そしてこの惑星を形創っているすべてのものから、その音や動きを感じ取っているのです。

自分たちがどれほどお互いに影響を与え合っているか、あなた方には想像もつかないでしょう。ほかの人間だけでなく、この地球全体にも影響を与えているのです。それを実感するのは難しくはありません。試したければ、病院に行って、そこに座っていてごらんなさい。それから教会やお寺に行き、そこに座っていてごらんなさい。それから今度は、どこか別のところ----野球の試合に行くとか、自然のなかで静かに座るといったことをしてみてください。それぞれの場所があなたに与える微妙な影響や、自分がそれぞれの場所に与える影響に気づくことでしょう。

あなた方が爆発するとき、お互いにぶつかり合います。非常に軽く触っただけのように感じるときもありますが、実際にはたくさんのエネルギーが、一人の人間からもう一人の人間へと流れているのです。人がともに踊るとき、そうしたエネルギーの動きは喜びとなり、人がぶつかり合う時、それは苦しみとなります。でも心配しないでください。どれもあまり長続きしませんから。痛みどめを二錠ばかり飲んで、朝になったら神様を呼べばいいのです。

カルマというのは、暑い夏の日に感じるそよ風のようなものです。それは、あなたを特定の方向に押しやる力を持っています。それは川の流れの勢いのようなもので、あなたを一つの選択肢から、別の選択肢へと導き、動かし、せきたてます。けれども、それはあなたに選択を「強制」することはできません。あなたが「瞬間に生き」ていれば、物事の本質がよく理解できます。「今」に目覚めていれば、自分を少しもごまかすことなく、何が起きているのかという本質を、はっきりと知ることができます。

結局のところ、どんな苦境に陥っているとしても、それは自分が創り上げたものなのです。あなたもそれはわかっていますね。どんなにその状況がカルマのせいのように見えたとしても、あなたが過去世で何をしたか、あるいはしなかったかといったことは、重要ではありません。それぞれの瞬間に、あなたは物事を別の方向へ動かすエネルギーを持っているのです。

エゴが働いているときに、どんな感じがするか知っていますね。それが分からない人は、他人に対する批判をいつまでも心に抱いているときや、自己憐憫や怒りに心を奪われているときの気持ちをちょっと感じてみてごらんなさい。次に、心を静めて高い次元のエネルギーを意識的に呼んでごらんなさい。エゴのエネルギーは水平に動きます。それに対して、聖なるエネルギーは垂直に動きます。ですから、それまで水平に動いていたあなたは、垂直に流れる聖なるエネルギーを呼び寄せることになります。あなたは神を呼び求め、神と溶け合います。その瞬間、あなたは急に活力を得たような感じがしたり、体の内部でエネルギーの動きを感じたりするでしょう。それは自分のなかで、何か深く満たされたものが動いているかのような感じを与えます。

ですから、自分が心から実現したいものをいつも念頭に置いて、神にその実現を手伝ってもらってください。これを今から六か月か八か月のあいだ試してみてください。自分が創造したいもののなかから、自分にとって最も大事なことを選ぶのです。あらゆる可能性の中に必ず一つ、あなたを心から喜ばせ、満たし、あなたの最高レベルの目標と調和するものが存在します。それに心を集中してください。

疑いが生じたときには、こう自分に聞いてみてください。神が存在しており、神と自分が融合できると思って生きていくほうが、自分の人生は充実しているのではないだろうかと。あなたの人生が充実したものになるかどうかということを、現時点ではっきりと知ることはできないでしょう。けれども、夢を感じつづけたからといて、何を失うことがあるというのでしょう。”神なるもの”のすばらしさや美、その神秘や壮大さに自分の夢を見たしてもらい、人生があなたに最高のものをもたらすのを受け取ってください。

神のエネルギーが地球の至るところを流れています。そして究極的に、自分に与えることのできる最高の贈りものとは、神、そして神のエネルギーと一体化することです。どうかそれを使って、溢れる喜びを生み出してください。あなたは常に自分の人生を創造しているのです。ですから、自分自身のために、あなたの「存在」の持つ豊かさを駆使して、意識的に創造してください。

怖れることはありません。直線型思考の人生を送っているあなたは、「幸せな人生」とは何かを、自分は知っていると思っているかもしれません。けれども、どんなに自分の人生が幸せなものに思えたとしても、それは本当の「幸せな人生」ではありません。なぜならそれは、信じられないほどのすばらしさや感動で、人生をあふれさせる要素に欠けているからです。それには、自分は神と意識的に一体化しているという感覚が、欠如しているのです。それでは、こうした感覚はどうすれば見つけられるでしょうか。大胆になることによってです。勇気をもって、同じことの繰り返しである退屈な世界を越えたところに、目を向けることによってです。”大いなるいのち”という創造するパワーは、あなたが心に抱くどんなものをも満たします。ですから、最も崇高なものを心に抱いてください。あなた一人の力では何もできません。けれども、あなたなしでも、何もできないのです。

2018-11-11 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「物質」と呼んでいるホログラム状態



我々が「物質」と呼んでいるホログラム状態は、量子の領域にある情報の原図を反映したものに過ぎないからである。現代科学では、「物質世界」を数字や算法として分解できることが分かっており、それが物理学、コンピュータ、ソフトウェアで課題解決法として広範に利用されている。リチャード・トンプソンは、『マヤ、仮想現実としての世界』の中でこう書いている。

単純な状態よりも、複雑な状態になるほうが、よくあることであるが、物理学の法則があまりにも単純であり、数学的に美しいという事実からして、多くの著名な科学者は、神は数学者だったに違いないと結論を出している。

全ての電子がまったく同じ電荷を持つという事実、全ての陽子がまったく同じ逆の電荷を持つという事実を考えてみよう。これは、原子と分子の安定性に不可欠である。もしも粒子によって電荷がさまざまなのであれば、中性の原子は存在できず、DNAのような生物の分子も機能できない。生命が存続できるように物理は構築されているように思える・・・

まさにプログラムがそのように記述されているからこそ、何もかも完璧に同期しているのである。古代ギリシャの天才ピタゴラスは、あらゆるものの中に数字を見出したが、彼の言ったことの大半は、バビロンではずっと昔から知られていた。ピタゴラスは、バビロンに住み学んでいたため、シュメール以前にさかのぼる知識体系に触れる機会があった。

聖書の黙示録では、「ここで知恵が要る。理解できる者には、獣の数字を数えさせよ。それは人間の数字だからだ。人間の数字は600と60と6である」と書いてある。

繰り返し出現する数や比率、配列は、全てデジタル仮想現実のコンピュータ・ゲームの数学である。「占星術」も振動的・数学的な構築物の一部であり、熟練した占星術師であれば、未来のトレンドを読むことができるが、それはコンピュータ・プログラムである仮想現実のトレンドに過ぎない。無限なる根源意識に星座は無い。星座があるのは肉体コンピュータである。

仮装現実の宇宙の中では、何もかもが数字で表現することが可能であり、フィボナッチ数列とφ数列と人間の顔の関係を研究したアメリカのスティーブン・マルクワルト医師は、「全ての生命は生物学である。すべての生物額学は生理学である。全ての生理学は化学である。全ての化学は物理学である。全ての物理学は数学である」と正確な結論を出している。さらに続きを言えば、全ての数学はエネルギーであり、全てのエネルギーは意識であるということになろう。ガリレオ・ガリレイはこう述べている。

宇宙は我々がその言語を学び、それが書かれた文字に精通するまでは、読解することができない。それは数学的な言語で書かれており、その文字は三角形、円形、その他の幾何学的図形dえある。この言語なくして、人間には一言も理解できない。


映画『マトリックス』では、緑色のコードが画面いっぱいに流れるのを見ているシーンがあるが、それが街路や人々の光景となって見えている。この現実のマトリックスも同じようになっている。ウェブサイトに何か掲載するということは、コンピュータの数学的なコードを入力しているわけであるが、エンター・キーを押すと、画面には画像などの形態で表示される。我々の「物質」の現実も同じであり、我々の脳が「立体」に見える世界へと情報を解読しているのであるが、実際にはデジタルのホログラムの塊以外の何ものでもない。

2018-10-29 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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