本当はすごい私

真の理解はハートにある

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たいていの人は日常生活の中で、生計を立てたり、他人とうまくやっていくことに奮闘し、これによって幸せを見つけようとしています。非二元主義の観点から、このような人たちの役立つような助言はありますか?

わたしたちはみんな、幸せを捜し求めています。手が届かないように思えるこの目的のために、多くの人が四苦八苦しています。子供のときには幸せを求めておもちゃを欲しがります。十代になると、運よく次のゲームに勝てるようにと願ったり、ビーチで見かけたかっこいい男の子やきれいな女の子とデートしたいと願ったりし、幸せを手にしようとします。大人になると、幸せへのレシピとは、よい仕事、幸せな仕事、家を手に入れ、子供をもち、健康で、等々が複雑に組み合わされたものなのだと思うようになります。この舞台全体を見てみると、わたしたちはずっと努力している状態にあって、常に何かを望み、常に何かを恐れ、常に幸せを捜し求めて、常に不幸せです。このように休みなく過去と未来を行ったり来たりすることで、自分の人生の今ある現実を充分に生きることができなくなっています。このために深い不満が自分の内に生まれますが、これを耳を傾けると、とてもポジティブな感覚に変わります。この不満はこのような質問を引きだします。「この地獄のような恐れと願望の輪から、どうやって抜け出すことができるだろうか?時々感じる幸せとは、どこから来ているのだろう?この幸せにずっと安らいでいることはできるのだろうか?生き生きと、クリエイティブに生きることはできるのだろうか?自分の時間を最善の形で使うにはどうすればいいのだろう?」

このように問いかけるということは、問題があることがわかっているという点において、わたしたちがすでにある程度の成熟度にあるということです。願望から願望へと移っていくことは行き止まりであること、願望の対象を手に入れたり、恐れていた出来事を避けるやいなや、新しい何かを始めるという、尽きることのない苦闘が続くことはどうやら理解しているらしいのです。これがわかると、新しい見方が開けてきます。わたしたちが求めている安らぎと幸せはどのような客体にも見つけることはできず、わたしたちが本当に望んでいるのは客体そのものではなく、望んでいる客体を得たときや望むことをやめたときにやってくる幸せだったのだと理解すると、客体を目指す代わりに、願望のない状態、幸せを直接目指すようになります。

そして、この理解の自然な結果として、無執着が起こります。この冷静さは努力で得られるものではなく、自ら現れるものです。これまでは客体を追い求めることで分散していた自分の中心から湧き出るエネルギーは、外側の行先を失ってしまいます。このエネルギーは、自分が探し求めていたものは自分自身であったことを見つけるまで、その源に還流し続けます。


真実を考えること、感じることができなければ、どのように真実に近づけるのでしょうか?

わたしたちは真実に近づくこともできないのです。わたしたちが真実なのですから。真実に近づこうとする実体は、真実が明らかにされるためには実在することをやめなければなりません。この制限された実体とは幻想です。この実体はその源である真実から現実を借りています。真実とは心にあるものではないので、感じることはできません。心、考え、感覚は真実に現れ、これらの源は真実の内にあります。クリシュナという師がバガヴァッド・ギーターで言っています。「存在物はわたしの内にその根を張るが、わたしは存在物のうちに根を張ることはない」

わたしたちは真実であるため、真実に近づくことはできなく、心はこれを想像したり、把握したり、これに到達することができず、心は心を超えたもの、心を知覚しているものを知覚することはできないという理解は、意識的に真実になるのに必要な条件にすぎません。この理解は生きていて、そのものに力があり、最終的には覆い隠しているすべてを引きはがし、真実は自明の理となるのです。

「意識的に」真実になることができる唯一の方法は、これが自明の理でなければならないように思います。これは自明の理なのでしょうか?

「真実」という言葉を使うとき、これは絶対的な真実のことを言っており、今日は正しくて明日には間違っているといった状況による概念としての相対的な真実のことではありません。絶対的な真実とは自明の理です。どのような客体にも関係なく、当てはめることはできません。相対的な真実は公式化されますが、絶対的な真実はどのような公式化も超えています。

絶対的な真実は深い確信、高次の理解の源です。そのため、これを「真実」と呼びます。真実は自明の理としての深い確信をわたしたちにもたらします。誰かに「自分が誰だか知っている?」と尋ねれば、きっと答える前にためらうでしょう。ですが、「自分が自分であると知っているし、自分がいるのも知っているでしょう?」と尋ねれば、ためらうことなく答えが返ってくるでしょう。この質問が自明の理としての現実について、絶対的な確信の源について、直接、尋ねているからです。これはわたしたちの存在の核に直接わたしたちをつなげます。

それが直接的かつ自明の理としての知だということは、対極にあるものがないということでしょうか?

そうです。これは概念や知覚ではないので、対極のものはありません。これは客体でありません。おのずから実在します。おのずから実在する唯一のものであり、突き詰めていくと、存在する唯一のものです。ものではなく、ものでなくもなく、わたしたちの本源的な現実です。

非二元の見方を理解するとは、「わたしは誰なのか?」という問いに対して、自分ではないものを消していき、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えが、「わたしは在るのか?」という問いに対する答えと同程度の確信と自発性に達するということなのです。この生きた答えは、決して公式化することはできません。これは、存在に対するわたしたちの確信が始まる源なのです。これらふたつの問いは、たったひとつの答え、わたしたちが受け取ることができる絶対的に満足できる唯一の答えになります。


なぜこの見方は、心が把握するのにこんなに途方もなく難しいのでしょうか?

この見方は途方もなく難しいだけではなくて、心には把握することのかなわないものです。ですが、この見方はハートが理解するには簡単なものです。とても簡単で、ほぼ即座に把握することができます。

ハートをもって何かを理解することはできるのでしょうか?どうやってこれを体験できますか?別の概念の集まりにつかまってしまっているだけではないと、どのようにわかりますか?

ハートは理解するたったひとつの方法です。どのような真の理解もハートを通して、ハートの内でなされます。わたしたちは頭脳をもって、心の内で理解すると思っていますが、理解するというのは瞬間的なものです。これは時間を超えたところから来ていて、心からは来ていません。理解とそれに続く理解の公式化の前に起こるこの探求は、道具として、媒介としての心の仕事だとしても、時間を超えた創造的な直観の瞬間はハートにあります。


心で物事を理解しているという観念は間違っているとおっしゃっていますか?

そうです。心は精神機能、客体を把握することしかできません。理解を把握することはできないのです。心が理解を越えると自我が入り込み、「理解した」と主張しますが、この理解が起きたときには自我はいなかったのです。どんなことについても真の知識とは心を超えた気づきの内で起こります。気づきとは理解することです。これはどのような理解についても当てはまるもので、例えば、数学の問題を解くのに必要な相対的な理解についてでさえそうなのです。ですが、理解が理解そのものについて触れると、わたしたちは新しい次元に入っていきます。知性に気づくようになった知性、絶対なる真実に向かう理解は、永遠にわたしたちと共にあります。これはある種の内部破壊です。


親切と慈悲の行為は自我から起こることはありますか?それとも必然的に自我ではない他のどこかから来るものでしょうか?

真の優しさ、真の慈悲は自己から、ほんとうの自分から起こり、自我から起こることはありません。名声や自分の都合、利益、力への願望といった個人としての動機があるところでは、自我から起こる慈悲に見える行為はありえます。これらは慈悲の行為ではありません。慈悲とはいつも愛から起こります。


通常、愛や利他主義と呼ばれるもの、自分よりも他を優先することは、個人がしているという面で個人的な動機があるということでしょうか?

そうは言っていません。逆に、利他主義の美しい行為は、わたしたち皆が知っています。溺れかかっている人を助けるために自分の命をさらけ出す人たちがいます。こういった人たちはためらうことなく、冷たい水にただ飛び込みます。カメラの前で自分のことを語ることも考えなければ、この状況からお金を得ることも考えません。その状況で与えられたことを、ただやっているのです。このような行為は、純粋な慈悲です。


それでは、自我のない行為とは完全に自然に起こるもので、別の面では自我を通して生きている個人に突然起こることがあるのですね。そういうことでしょうか?

もちろんです。自我というのは不変のものではありません。本当にわたしたちであるもの、ほんとうの自分は不変です。自我は概念であり、やって来ては去っていきます。


ということは、自我として間違いがあっても、自己が直接、行動する可能性はあるのですね?

そうです。制限されたものであるという観念のないところでされる行動とは調和があり、これはわたしたちの存在の全体性から起こります。


いつも優しい人や、優しくない人をわたしたちは皆知っています。どちらの言動も自我から来ていて動機があるので、いま話している完全に自己を捨てたものとは違う、ということでしょうか?

本当の優しさとは完全に中立的で、自然に起こり、努力がありません。これはわたしたちに瞬間的に浸透し
、ハートに届きます。この種の優しさは、優しさというのはこうあるものだというわたしたちの心がもっているイメージとは合わないかもしれません。時には怒りのように見えることもあるでしょう。いつも変わらぬ笑顔と優しい声であるとは限らないのです。本当の優しさは生命から来るものです。このため、状況と完全に調和しています。偽の優しさには意図があり、個という実体についての目的があります。この目標は世俗的なものだったり、来世で天国にいたいから、というような霊的なもののこともあります。この目標が何であれ、個人としての動機がそこにあるのであれば、慈悲ではありません。


優しさとは常に笑顔でいて優しい声であるということではないことは、多くの人が認めるところでしょうが、怒りのように見えることがあるということには、疑問を感じるでしょう。これについて詳しく教えていただけますか?

ドラッグの売人があなたの十歳の子供に近づいてきてコカインを売ろうとしたら、あまり優しくないやり方で行動するのではないでしょうか。笑顔はなくなりますし、落ち着いた声でもなくなるでしょう。ですが、この行動は個人的な動機なく、自分の子供とドラッグの売人の両方にとってよいことなのです。

どうしてドラッグの売人にとってよいのでしょうか?

あなたの怒り、あるいはどのような行動でも、それが正しいことに気付き、この人は自分が何をやっているのか理解して目を覚ますかもしれません。


親切にふるまっていっるように見えながら、実は隠された動機がある人が正しさに直面したらどうなるでしょうか?ドラッグの売人の例のように、真性によって目を覚ますでしょうか。

真正が人物の目を覚ますことはありません。人物を消すのです。あなたの損なわれていない純真さ、批判的でない真正性が、見た目には親切なものの裏にある隠された動機を見たり感じたりします。あなたは巻き込まれることなく、透明なままでいます。その人があなたを罠にかけようとすることはことごとく失敗し、これがその人を打ちのめします。関わり合わないという態度がもつ自然な尊厳は、この人の内に、自分がしていることが不適切だという洞察を生み出します。これによって影響される者があなたの内にはいないので、この人の行動は鏡のように自分に返り、理解する機会を得ることになります。


そうなれば、慈悲のように見えたりそうでないように見える行動というのは自我から起こりますが、真の慈悲とはほんとうの自分であり、慈悲の本物の行動はそこからのみ起こりえるのですね。

そうです。

どのようにほかの人を助けることができますか?わたしたちはほかの人を助けることができるのでしょうか?

ほかの人というものがある限りは、私たちのすることは愛に根ざすことはできません。他人を助けるためには、まず他人というのはいないということを明確に知る必要があります。他人に自分を、「ワタシ」を投影することをやめ、他人を個人として概念化することをやめなくてはなりません。それでなければ、行動の裏には常に動機があり、純粋さに欠けます。他人を助けるための最初の段階は、自分を助けることです。他人を愛する最初の段階は、自分を愛することです。本当の助けは、わたしたちは個という実体ではないという理解から生まれます。




これまで苦しめられてきたネガティブな感情に取り組もうと、非二元主義に引き寄せられる人たちがいます。恐怖や怒り、嫉妬、うつ状態などで悩んでいる人たちです。このような人たちの役に立つことを教えてください。

健康を求めるということは、その人は健康そのものであるというしるしです。精神障碍者が精神障害に気付いたり、思い込んでいる人がその思い込みに気づくことがあるでしょうか?したがって、この人の本源的な健康から来る気づきがある程度あるということであり、これが真のアイデンティティへの探求を始めます。ですから、これはポジティブな兆しなのです。自分自身の次元から始めなくてはならず、これは現在の状況に完全に向き合うということです。例えば、いま起こっている会話の内容をすべて理解できないことは、何も間違いではありません。自分自身を偽ったり、自分自身について誠実さに欠けていたりすれば、問題です。なんでも理解しようという、とてもシンプルで、とても謙虚な心でいなければなりません。誠実さをもって、実験をしている科学者のように個人的な干渉なく始めなければなりません。

個人としての動機、他人と関係の仕方(家族、友達、仕事仲間)だけでなく、ネガティブな感情の源、つまり、自分であると信じている個人についても意識する必要があります。また、こういった感情が感覚として自分の体にどのように影響しているかについても、意識する必要があります。こういった体感覚が現れたらその状態を楽しむことなく、怖がることなく迎え入れ、状況に向き合い、外部世界と言われているものと体から来る感覚データと向き合う必要があります。

このように調べていくことは、毎日二度、30分間行う瞑想に留まりません。毎瞬、関心を持っていなけれななりません。日常生活におけるあらゆる状況で自分の反応を見つける必要があり、判断することなく結論もなく受け入れる姿勢にもっとずっと慣れる必要があります。自分や他人を批判したなら、ただこれを見て、気づいて、進むだけです。これが悪い習慣の再発だということがわかります。これに苦闘すると強めてしまいます。そのままにしておけば、いなくなります。これを知るということが大切なのです。このようにして変容は、浄化は起こります。わたしたちの人生は、仕事、物質的なもの、個人的なもの、さまざまな要素に断片化されているように見えます。こういった断片を統合する調和を次第に感じるようになります。そして、この断片の根底にある一体性が自分であることを見つけます。


よく怒っていたり不幸せだったりする人がいるとして、そういう人がこういった感情から逃げようと探求することが、背景のどこかに幸せ、愛、健康がある証拠だというのはなぜですか?

落ち込んでいる最中には身動きがとれなく、「どうやってこれをなくそう?」という問いは出てきません。この状況にいくらか気づきがないと、この問いかけは起こらないのです。これに気づくという能力をまず認識しなければなりません。すると、不幸せな状態と目撃している状態にいくらかの距離が・・・。


この不幸せの気づきですか?

そうです。これを目撃していることです。そうでなく重い鬱状態にあるのであれば、この気づきはありません。

そうですね。そうだとすると、精神病的な状態です。

すると、その場合には治療的介入の余地がありません。ですが最も重い鬱状態でさえ、状態です。どのような状態にも始まりと終わりがあります。不変ではないのです。自分が落ち込んでいること、自分が不幸せなことがわかったとき、そのことでもっと落ち込む代わりに、「また同じことになっている!」と自分を批判する代わりに、この美しさを知ることができます。「これに気づいたということは、自分は100%不幸なわけではないのだ。これに完全に埋没してはいない。自分のうちの何かしらは、落ち込むことから解放されているのだ」


ちょっと待ってください!鬱状態にある人が自分の鬱状態の美しさを知るのは、とてつもなく難しいと思います。

わたしが言っているのは、この人の鬱状態の美しさではありません。鬱状態に気付いていることの美しさです。

気づきの美しさですか?

そうです。そのとおりです。不幸せとは別にこの人の内にある何かの美しさです。それがなければ、自分の気分の悪さに気づくことはないでしょう。

ということは、自分の鬱状態を客体として認識することのできる美しさですね。

そうです。セラピストは患者にこのポジティブな要素を教えてあげるべきです。そうすれば、患者は主たる、というより実のところは唯一の治療の手段である気づきの性質を認識します。

ですから、わたしであればこの人にこう言うでしょう。「あなたがどう感じ、どう考えているか見ているこの能力があなたの内にあるということは、大事なことです。これをもっと信頼し、歓迎し、受け入れ、これにオープンでいるだけでよいのです」。この能力が認識されると、この能力が自活するようになります。


この患者はもう鬱状態という姿勢ではなく、鬱状態に気づいているという姿勢をとる、ということをおっしゃっているのですね。

そうです。ぶり返すことはあるでしょうが、その合間には明確な理解があります。この明確な理解の間、偽の観念である積み重ねられたゴミが自然に捨てられます。暗い部屋で窓を開けると、光がただ現れ、暗くなるようなものです。

気づきのこの性質、距離をとるということを覚えていますし、自分が行動をとっている者ではないということも理解して・・・、

自分はこの鬱状態に苦しむ者でもない、ということもですね。

まさにそうですね。これは空に浮かぶ雲のようなものです。太陽の放射が雲を霧散させるのと同じように、気づきは本源的な治療薬になります。

2017-11-17 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

望みを実践する

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望みを実践する



私「しかしね、成長を望んだり、学びを望んだりするから苦しみがあるのなら、成長を望まなければいいんですか?という人の中にはいる。」
小野「私もそこを疑問に思ってました。」

私「そういうふうに勘違いする人も確かに多い。もちろん、成長や学びを望むことは素晴らしいことだし、必要なことだよね。成長しようとしない、人の痛みが分からないわがままな人は、どんな人生を送ることになるだろうね。想像したらわかるよね。一人ぼっちの寂しい人生になっていくだろう。それを魂レベルではわかっているから、自然と成長の方を選ぶことになる。しかし、学び続けなくてはいけないと思い続けると、実は本来の目的が達せられなくなってしまう」
小野「??」

私「幸せになるためには、修行や学びが必要だと思っている人がたくさんいるんだけれども、そうすると、修行の人生だけに終わってしまうことになる。」
小野「あ、そうですね。」

私「小野さんは小学校の時に、足し算を習ったよね?」
小野「はい。」

私「では、足し算は何のために習ったんだろう?第一の目的はなんだろう?」
小野「あとあとの勉強ができるように?」

私「たしかにそれも大切。ではね、今あなたはどんな時に足し算を使っていますか?」
小野「ものを数えたり、お買物の時にお金の計算をしたり。」

私「そうだよね。足し算を習った第一の目的は、計算ができるようになって、お買い物に行ったり、普通に日常の生活ができるようになるために習ったんだよね。だからまず「読み、書き、そろばん(計算)」なんだ。決して、問題集を解くために習ったのではないよね。
問題集や教科書は足し算ができるようになるための手段であって目的ではない。しかし、学ぶことが目的になってしまうと、永遠と問題集を解くことになってしまう。」
小野「そうですね。」

私「一桁の足し算ができた。次は二桁、三桁、五桁、十桁、百桁・・。そういうことをやっている人も沢山いる。百桁の足し算の練習の意味があるのかな?せいぜい三桁くらいが出来れば充分じゃない?」
小野「そうですよね。」

私「そうだよね。それが出来たら、それを使ってお買い物に行けばいい。そして、おいしいケーキを買って、みんなで食べる。『美味しい!幸せ!』。一番ほしかったものが手に入るでしょう。」
小野「はい。」

私「そうなんだよ。足し算は、学ぶことが目的ではなくて、それを使ってお買い物をして、おいしいケーキを食べる。そして幸せを手に入れる。それが目的なんだよ。つまり、学ぶことが目的ではなくて、使うこと、実践することが目的なんだ。そうすれば、あなたが望んでいるものが手に入る。」
小野「そうなんですね。」

私「あなたが学ぼうとしたのは「優しさや思いやり。本当の強さや勇気。許しや受容、寛容。自信。など」だった。そういう自分であったなら、どんな状況であろうと、どんな仕事をしていようと、最高の自分になれること、最高の人生を送れることが、魂の奥底ではわかっている。それは、とても素晴らしい望みであり、そのためのとても困難な学びを、何千年も続けてきた。
では、なぜそれを身に着けようとしたのか。それを『実践する』ためだよね。実践することで、初めてあなたの望む最高の自分や、最高の人生が手に入る。

しかし、あなたも今まで、実際にそれを実践した時があるはずだよ。その時は一瞬でも幸福感が手に入らなかったかな?そういう経験は沢山あるはずだよ。」

小野「確かにそうです。私が優しい気持ちで人に接したときは、相手も笑顔になって幸せな気持ちになります。」

私「そうだよね。そんな体験はいっぱいあるでしょう。しかし、あなたがいつまでも学ばなくてはいけないと思い続けていれば、なりたい自分、つまり優しさや自信や許しを、実践できない状況が現れてくることになるんだよ。だって、「許せないような人も許せる自分でありたい・・。」と望んでいるからね。そして、あなたが許せない状況が現れ、許せない、でも許さなくちゃ・・、という苦しみが繰り返されることになる。」
小野「そういうことなんですね。」

私「言ってみれば、荒波の発注伝票を出し続けているようなものだよね。神様(宇宙)はあなたの望みをそのままの形で100%叶えてくれるんだ。だから、あなたの発注に応じて荒波が届けられる。荒波が届くとあなたはまた溺れなくてはならなくなる。溺れたあなたは『もっと鍛えなくちゃ!』とさらに発注をかけてしまう。いつまで続ける?」
小野「確かにそんなことをやってますね。でも、もう嫌です。」

私「そうだよね。もう嫌だよね。だから、あなたの人生の目的を達成するには、学びや修行から卒業する必要があるんだよ。しかし、なかなかそこから卒業できない。どこかで『自分は学ばなくちゃいけない。』『もっと成長しなければいけない。』『学び続けなければ幸せになれない。』という思い込みがある。それはそれで素晴らしいんだけれども、実はそこに落とし穴があるんだ。ではなぜそうなってしまったのか・・・。例えばあなたが、ボクシングをやっているとしよう。あなたが、『もっと強いボクサーになりたい。もっと強く、もっと強くなりたい』と望んだならば、どんな練習相手が必要になるかな?」
小野「自分よりも強い人?」

私「そうだよね。自分よりも弱い練習相手で、あなたの望む強いボクサーになれるだろうか。無理だよね。」
小野「はい。」

私「もっと強いボクサーになるためには、自分よりも強い練習相手が必要になる。では、その自分よりも強い練習相手にあなたは勝てるだろうか?」
小野「負けちゃいます」

私「無理だよね。そうして、結局あなたは負け続けることになってしまう。負け続けるとあなたはどう思うだろう。『もっと強くならなければ・・・。』と思う人もいるだろうし、あるいは『やっぱり私はダメだ・・。』と諦めてしまう方もいるだろう。
『もっと強くならなければ・・。』と思った人は、もっと強い練習相手を望むことになるだろう。そうすると、いつまでも殴り倒され、負け続けるということが繰り返されることになるよね。

そして『やっぱり私はダメだ・・。』と諦めてしまった人も、自信を喪失し不本意な人生が待っていることになるだろう。結局どちらも同じ結果になりかねない。実際に、そうなってしまっているクライアントさんを、今までも何院も見てきてるよ。」
小野「確かにそうなりますね。もしかしたら私もやっているかもしれません。」




修行をやめる許可を自分に与える



私「ではどうしたらいいのか。それは『修行を止める許可を自分に与える』ことなんだよ。ほとんどの人が、幸せな人生を歩むためには『修行が必要だ』とどこかで思い込んでいる。思い込んでいるというよりも、刷り込まれてきていると言った方が正確かもしれない。あなたはどうですか?」
小野「確かにそう思ってきました」

私「おそらくほとんどの人はそうだろうと思う。以前は、私もそう思っていた。しかしいずれにしろ、ここでも最初に言った『前提条件』が現実化し始めることになる。
『幸せになるためには、立派な自分にならなくてはいけない。そのためには、たくさんの苦労や修行が必要だ』と、どこかで思い込んでいる。それはそれで素晴らしい。

やはり、人の痛みがわからない傲慢な人は、人が離れていき、いずれ寂しい人生になっていくことになる。だから、辛い苦しい体験はすくなからず必要。成長も必要。しかしそれをいつまで続けるんだろう。

修行が必要だという思い込みをいつまでも続けていると、その思い通りに修行だけの人生になってしまうよね。本当にあなたはそれを望んでいるのかな?」
小野「やっぱりそれはいやです。」

私「周りの人も、それをあなたに望んでいるのだろうか?」
小野「ん・・。私の両親は望んでいたみたいです。」

私「確かにそういう人は沢山いるよね。おそらくあなたのご両親も、人生は修行だと思い込んでいたタイプなんだろうね。それはそれでオッケーだけど、修行だけの人生って楽しくなさそうだよね。修行というものに対するとらえ方も、人それぞれと思うけど、「修行=苦行」になっている人が多いと思う。修行も、その中に喜びがあれば、それはそれで素晴らしいと思う。なりたい自分になるためには努力は必要だよ。しかし、苦行は必要ない。苦行と努力は違うからで。努力という言葉にはポジティブな側面がある。しかし、自分を否定し責め続けて、苦しみの中での修行は文字通り苦行や苦労でしかない。下手をすると、つぶされかねない。そうなっている人も沢山いる。」
小野「私もそうなってたかもしれません。」

私「そんな人が沢山いるよ。しかし、あなたが望んだのは、『優しく思いやりのある、自信に満ちた自分が、みんなを笑顔にして、そして私も幸せになる。』ではなかったの?
小野「そうです。」

私「そのため、今までの苦行であり苦労や体験ではなかったのかな?」
小野「はい。」

私「その修行や苦行は手段であって、目的ではなかった。本来の目的であり、あなたの望みは、『優しく思いやりのある、自信に満ちた自分』が、『みんなを笑顔にし、そして幸せになる』を『実践する』ことだったはずなんだ。
しかし、ほとんどの人が、実践をする前に『理想の自分になりたい』をやっている。『なりたい』と言っているとうことは、『私はまだまだです』と言っているということだから、『まだまだな私には修行が必要です』になって、修行の世界から抜けられないことになってしまう。いつまで修行を続けますか?」
小野「そういうことですね。でも、もう修行は嫌です。」

私「そうだよね。だから、修行の世界から理想の世界に移るためには、修行が必要なのではなくて、『修行をやめる許可を自分に与える』ことなんだよ。そうすれば、あなたの本来の望みである『明るくイキイキとした幸せな人生』が手に入る。
小野「はい。」

私「『学ばなくてはいけない。修行や苦労が必要だ』の世界から卒業して、今まで学んできたこと、身に着けたものを実践する世界に行こう。そうすれば、あなたの本当の望みが、現実化し始める。あなたはそれを望んでいなかった?」
小野「はい確かにそうです。」

私「しかしまた、ここで問題が起きてくる。『修行を止める許可を自分に与える』ことがなかなかできない。許可を与えることに、また躊躇してしまう。申し訳ないような気になってしまう。
だから、悩みや苦しみがなかなかなくならないと言ってもいいのかもしれない。」
小野「確かにそうですね。そんな感覚があります。」

私「ではなぜ、『修行を止める許可を自分に与える』ことができないのか。
それは、最初に言ったように、自分に×をつけているからなんだ。どこかで自分を否定している。『私はダメです』と思い込んでいる人が多い。あなたはどうだった?」
小野「はいそうです。だからここに相談に来たのかもしれません。」

私「そうだよね。しかし『私はダメです』と思い込んでいると、『だめな私には修行や苦行が必要だ』になってくるよね。だから、修行の世界にとどまろうとしはじめる。そうすると、苦行や苦労だけの人生で終わってしまう。
ではなぜ、自分のことを『ダメな私』と思い続けるのか。そこには、自分の奥底に漠然として『罪悪感、自責の念』があるからなんだ。あなたはどう?」
小野「そう言われてみると、確かにあります。漠然としたものがあります。」

私「そういう人が多いんだよ。ではなぜ『罪悪感、自責の念』を持っているのか。それは、過去に何か体験があったからなんだ。何もなければそういうネガティブな感情は持たないものね。
ではどういう体験があったのか。大体想像がつくでしょう。今までのたくさんのセッションの事例からいうと、過去に大失敗をしてしまったり、誰かに迷惑をかけていたり、他にもあるかも知れないけども、自分が罪悪感や自責の念を持ってしまうような、過去の大きな体験を引きずっている場合が多いんだ。そして、その体験のほとんどは、前世の場合が多い。いくつかの事例でも示したように、大きな失敗や、周りに迷惑をかけた自分を責め続けて、自分を罰したり償いの人生を送っている人が非常に多いんだよ。

つまり、今の人生を支配している思考パターンのほとんどは、前世の体験に基づいてる場合が多いんだよ。『あんなひどいことをした自分が、幸せになるわけにはいかない』とか『辛い思いをしても当然だ』『思い通りの人生を歩んではいけない。』と思っている人も沢山いる。前世の思い込みが足かせになって、修行を止める許可を与えられなくなってしまっている。
ならばどうしたらいいのか。その自分を否定するようになった過去、前世の体験を具体的に明らかにし、それを解消し、さらにはその体験によって抱え込んでしまった感情(罪悪感、自責の念、後悔、自己否定、不安感、恐怖し、喪失感、猜疑心など)を解放することによって、自分を許すことができるようになる。

そうすることで、自分に課した課題や修行を続けなければいけない、という思い込みから解放されることになるんだ。足かせが外れるんだよ。それには、前世療法がとても有効な手段になるんだ。自分が前世の出来事を思い出して、解消することができるからね。
そうすると、『自分を許し、修行をやめる許可』を自分に与えることができる。本当の自分の人生の目的が現実化し始めることになるんだよ。」
小野「そうなんですね。なんだか楽しみになってきました。」

私「では、過去の罪悪感を乗り越えて、自分を許すことができた、あるクライアントさんの事例を紹介するね。」



彼女は37歳独身です、実は生まれてからこの方、いちども男性とお付き合いしたことがありません。見た目も性格も普通の女性ですから、彼氏がいても全くおかしくない感じの女性でした。
カウンセリングを進めていくと、彼は性的な行為に対する恐怖心がとても強いことがわかりました。

「今までに、お付き合いした人とキスとか、そういうことになりかけた事は何度かあったでしょ?」と聞くと、
「はい。何度かありました。」
「その時はどうだったの?」
「例えば、デートに誘われて、それはとてもうれしくて、楽しいのですが、帰り間際に手を握られたりすると、それが怖くて次からは会えなくなるんです。」
「なぜそれが怖いの?」
「次に会うと、それ以上の事になるのではないかと思うと、とても怖くなるんです。」
「それでは、恋人も結婚も難しいね。」
「そうなんです。私も早く結婚して、子供が欲しいと思うんですが、それを考えるのも怖くなるんです。」と彼女は言います。
彼女は、男性とお付き合いすること、性的な行為に及ぶことに対して強い恐怖心を持っているようでした。

その恐怖心に焦点を当て、原因となっている前世へと誘導しました。

300年ほど前の日本の人生ができました。
前世の彼女は子ども二人を抱えたお母さんです。とても幸せそうな家庭です。ご主人とも仲が良く、子供もとても可愛い理想的な家庭のようでした。しかし、ある時ご主人とちょっとしたことで喧嘩になってしまいました。ほんとにささいなことです。彼女はご主人を困らせてやろうと、プイッと外に出て行ったのです。

二時間ほどして家に帰ると、子供たちがいません。ご主人に「子供たちはどうしたの?」と聞くと、ご主人は「お前が連れて行ったんじゃないの?」というのです。びっくりした二人は、あわてて子供たちを探しに飛び出しました。子供たちは、いなくなったお母さんの後を追って、探しに出て行ったのでした。

何時間探しても見つかりません。そのうち土砂降りになってきました。半日ほどかけてやっと、びしょ濡れの子供を見つけることができました。急いで家に連れて帰り、冷え切った体を温めるのですが、それが原因で二人は肺炎になり、必死の看病もむなしく亡くなってしまったのです。

母親である彼女は、二人の子供を死なせてしまったのは自分のせいだと、自分を責め続けました。あんなに仲の良かったご主人との関係も、破綻してしまい、一人で暮らすようになりました。

「こんな自分が幸せになるわけにはいかない。寂しく苦しい人生でちょうどいい」と思っていたのです。

そして、「何度生まれ変わっても、私には結婚する資格は無い。ましてや、子供を産む資格などあるわけがない。一人寂しい人生でちょうどいい。」と思って亡くなっていたのでした。

ですから彼女は、子供を作るという行為のずっとずっと手前から遮断をしていたのです。結婚することはもちろん、子供を産み母親になるずっとずっと手前から、ストップをかけていたのです。結婚することも子供を産み母親になることも、幸せな人生を歩むことも、自分には資格が無いことだったのです。そう堅く決めて生まれてきていたのでした。

そのことがわかり、亡くなった子供たちの魂に謝罪をし、ご主人の魂とも和解をし、皆に許してもらうことで、自分を許すことができました。自分が幸せになる許可を、自分に与えることができたのです。
その半年後、彼女に恋人ができました。そしてさらに一年後には結婚をして、幸せな家庭を築いていらっしゃいます。近いうちに可愛いお子さんにも恵まれることでしょう。

私「どう?彼女は前世の出来事を引きずって、自分に幸せになる許可をずっと与えてこなかった。こんな私が幸せになる資格なんかないと、ずっと責め続けていたんだ。だから、目の前に幸せになるチャンスが現れると、自ら身を引いたり、自分の手で潰してきたんだよ。同じことを何度も繰り返してきていた。

そのことを思いだし、みんなに許してもらうことで、自分を許すことが出来た。そして、幸せになる許可を自分に与えることが出来たんだ。セッションでこのような体験をして、自分を許すことが出来た人は沢山いるよ。人生が大きく変わり始めたんだよ。

しかし、ここで勘違いしてほしくないのは、向上心を持つことが苦しみを作り出す直接の原因ではないということ、なぜ向上心を持つようになったのか、そこが問題なんだ。その根本にある感情が問題なんだよ。

それが罪悪感や自責の念からのものであれば、この事例の彼女みたいに常に自分を責め続け、どこかで自分が幸せになる許可を与えなくするからです。どこかで『罪滅ぼし』をすることが、『自分の成長』を近藤してしまっている場合もある。確かに、「罪滅ぼし」によっても成長は可能だと思うけど、本来の目的である「みんなの幸せ」には行き着かなくなってしまう。中には、事例の彼女のように「罪滅ぼし」だけが目的になってしまっている人もいる。

「罪滅ぼし」から来る修行は、ただ苦しみを生むだけ、みんなの幸せにはつながらない。ただ自己犠牲を続けるだけになってしまう。自己犠牲を続けている人の周りの人はどんな気持ちだろう。周りもつらくなるよね。」
小野「はい。」

私「もしもあなたの前に、溺れている人がいるとしたら、あなたはどうする?」
小野「もちろん助けようとします。」

私「助けようとするね。しかし、あなたは沈みかけている船で助けに行こうとするだろう。だって、あなたは立派な船に乗る資格は、自分にはないと思っているものね。あなたもどこかで自分を責め続けていないかな。」
小野「あ、確かにそうですね」

私「そういう人が多いんだよ。どこかで自分は立派な船に乗る資格は無いと思っている。つまり、幸せになる資格は無いと思っている人が非常に多い。では、沈みかけている船で溺れている人を救うことができるだろうか。」
小野「無理ですよね。」

私「どう考えても無理だよね。助けるどころか、助けなくてはいけない人が、もう一人増えるだけのことで、大迷惑だよね。
だから、あなたが苦しんでいる人を助けたい、みんなに笑顔になって欲しい、と思うのであれば、あなたは絶対に沈まない船に乗っておかなくてはいけない。十人助けたいのであれば、十人乗りの船に。百人助けたいのであれば、百人乗りの立派な船に乗る許可を与えなければいけない。そうすることで、初めてみんなを笑顔にすることができる。だから、遠慮なく自分が幸せになる許可を与えることだよ。

つまり、自分を許し認めることで、あなたの望む成長は手に入る。そして、みんなの笑顔も自動的に手に入る。」
小野「はい。何となくわかってきました。」

2017-11-08 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

家族と社会


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家族と社会



家族は社会に敵対します。家族は全体としての人間関係に敵対します。それは大きな家の一つの部分、一つの小さな部屋のようなものですが、その小さな部屋を途方もないものに変えてしまうのです。それが家族です。家族は家{=人類}全体との関係でのみ重要性をもちます。一つの部屋が家全体と関係しているように、家族もまた人類全体と関係しているのです。しかし、私たちはそれを分離して、それに執着します。私たちは家族を重要視します----私の血縁者、あなたの血縁者を。そして私たちは果てしもなく互いに闘争するのです。家族は家全体に対する小さな部屋のようなものです。私たちが家全体を忘れるとき、その小さな部屋は恐ろしく重要になります。そして家族もまた、あなたが人類の存在全体を忘れるとき、非常に重要になるのです。家族は人類全体との関係で重要性をもつだけです。でなければそれはおぞましいものに、化物じみたものになってしまうのです。

私たちは本当に自分の家族を愛しているのか?



そこで、あなたは言います。「私は家族を愛している」と。私たちは本当は家族を愛してはいません。私たちは自分の子供たちを愛してはいません-----実際、私たちは愛していないのです。あなたが子供たちを愛しているというとき、あなたは本当は彼らが一つの習慣に、オモチャになった----暫時の楽しみ{=気晴らし}の対象になった----―と言っているだけなのです。しかし、もしもあなたが何かを、自分の子供たちを愛するなら、そのときあなたは気遣うでしょう。

あなたは気遣うとはどういうことかわかりますか?もしあなたが気遣うなら、一本の木を植えるとき、あなたはそれを思いやります。あなたはそれを大切にして、栄養を与え・・・ます。あなたは植える前にまず深く掘らねばなりません。それからその土が適切なものかどうかを見て、それから木を植え、それを保護し、毎日それを見守ります。それを、あたかもあなた自身の一部であるかのように世話します。しかしあなたは、自分の子供たちをそんなふうには愛しません。もしそうするなら、そのときあなたはまるでちがった種類の教育を行うでしょう。そうすれば戦争はなくなるでしょう。貧困はなくなるでしょう。精神はそのとき、たんに技術的に訓練されることはなくなるでしょう。そうなれば競争はなくなるでしょう。国籍はなくなるでしょう。そして私たちが愛さないなら、こうしたすべてがはびこるのが許されるのです。



依存はあなたを無能化する



あなたが自分は誰かを愛していると言うとき、あなたはその人に依存しているのではありませんか?あなたがまだ若くて{=子供で}、あなたの父親、母親、教師、あるいは保護者に依存しているときは結構です。あなたは若いのだから、面倒を見てもらうことが必要で、衣服や、家や、安全を必要とするからです。若い間は、あなたは守られているという感覚を、誰か自分の世話をしてくれる人がいるという感じが得られることが必要です。しかし、大きくなったときですら、この依存感情はまだ残っているのではありませんか?あなたはそれが年のいった人に、両親や教師たちにあるのに気付いたことはありませんか?彼らがどれほど自分の妻や子供たちに、その母親に依存しているか、気づいたことはありませんか?大人になってもまだ人々はつかまる相手が誰かほしいと思い、依存的であることが必要だとまだ感じているのです。誰かを頼りにしなければ、誰かに指導されなければ、誰かに慰めと安心感を与えてもらわなければ、彼らは寂しく感じるのです。ちがうでしょうか?彼らは途方に暮れてしまうように感じるのです。それで、この他者への依存は愛と呼ばれています。しかしあなたがそれをもっとよく観察するなら、あなたは依存は恐怖だということに気付くでしょう。それは愛ではありまえん。彼らは独りになることを恐れているので、物事を自分で考え抜くことを恐れているので、生の意味全体を感じ取り、見、発見することを恐れているので、自分は神を愛していると感じるのです。だから彼らは彼らの言う神に依存しているのですが、精神によって創り出されたものは頼りにならないものです。それは知られざるもの、神ではありません。理想や信念についても事情は同じです。私は何かを信じます。するとそれが私に大きな慰め・・・を与えてくれるのです。

若いときにあなたがそうするのは適切なことです。しかし、あなたが成長して大人になってもまだ依存し続けるなら、それはあなたが考え、自由になる能力を奪います。依存のあるところには恐怖があります。そして恐怖があるところには権威があり、そこには愛・・はないのです。



家族をもつのは自然なことだが、そこに隠れるのは災いである



今あるような家族は、限定された関係にユニット{単位}、自閉的で排他的なユニットです。・・・・私たちは内的な、心理的な安全を求める欲望を理解しなければならず、たんに安全の一つのパターンを別のパターンに置き換えるだけであってはなりません。

だから問題は家族ではなく、安全でいたいという願望なのです。安全を求める欲望は、どんなレベルのものであれ、排他的なものではないでしょうか?この排斥の精神は、家族として、財産として、国家、宗教等々として、それ自らを表わすのです。内的な安全へのこの願望が、つねに排他的である外部的な安全の形態をつくり出すのではないでしょうか?安全を求めるまさにその欲望が、安全を破壊するのです。排斥、分離は、避けがたく分裂を生み出します。国家主義、階級間の敵対、戦争は、その症状です。内的な安全の手段としての家族は、無秩序と社会的災い源泉なのです。


唯一の安全は、内的な安全なしに生きるのを学ぶことになる



私たちが外部的に安全・・に暮らせるのは、私たちが内的な安全を追い求めないときだけです。

他のものを満足や安全の手段として使うことは、愛ではありません。愛は決して安全ではありません。愛は、その中に安全でいたいという願望がない状態です。それは{無防備で}傷つきやすい状態です。それは排他性、空虚さ、憎しみが不可能な唯一の状態です。その状態では家族は出現するかもしれませんが、それは排他的なものでも
、自閉的なものでもなくなるでしょう。

2017-10-30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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