本当はすごい私

静寂


静寂



あなたの肉体の奥深くに気高く生き生きと存在するのは、”神なる自己”への入口です。それは確かにそこにあり、静寂を通して触れることができます。多くの人にとって静寂とは瞑想を意味します。長時間の深い瞑想は”大いなる源”への最短距離ですが、誰にでもできるわけではありません。ですから、誰にでもできることについて話してみましょう。

まず最初に、内なる静寂を体験するには何かを変えなければならない、という考えを捨ててください。静寂とは、肉体の動きや自分のまわりのエネルギーの動きをすべて止めて、自分を真空状態に置くことだとあなたは考えていますね。けれども、エネルギーは常にあなたのまわりで動いているので、これでは不可能なことを自分に強いることになります。あなたの魂、あなたの全体性は、あなたの「存在」のなかにある静けさへの道を知っています。具体的にどうするか、あなたが知る必要はありません。ただ、そうしたいと思わなければなりません。「静まれ」とい指令を、心のなかで自分に与えなくてはなりません。まず最初に息を止めるようなものです。目を閉じ、息を止め、自分のなかの静けさを感じてください。そのあとは、今までやっていたことを、そのままやりつづけてください。

あなたは純粋な目覚めた意識です。それ以外の定義はぜんぶウソです。けれども、そうだとすると”大いなる愛”はどこにあるのでしょうか。「愛」という言葉をあまり使いたくないのですが、それは人間の意識のなかでは、その言葉が手垢のついたつまらないものになっているからです。人は、自分の心と頭が”大いなる愛の光”で満たされていることに、まだ気づいていません。その”大いなる愛の光”こそが、純粋な目覚めた意識なのです。覚醒と愛は同じものです。愛とは覚醒の感覚なのです。

”聖なる愛”というものが存在し、自分がその聖なる愛なのだということを信じようと、心に決めてください。そうすると、それを心から感じられるようになるために、日常生活のたえまないざわつきを静めたいと思うようになります。あなたは”大いなる愛”そのものであり、”大いなる慈しみ”そのものです。これらの愛や慈しみに触れることができると、すばらしく高揚した気分が生まれ、心と体と精神を満たしてくれます。

日常生活のなかでこの静寂を実践していくと、それまでになかった経験をするようになるでしょう。自分のなかに何かが本当に存在し、静寂さを通してそれを感じることを願えば、それは叶うのだということを理解すると、それが起こりはじめます。静寂を実践するときには、その反応が起こるのを期待しながら、待ってください。「期待しながら」待つことを忘れないでください。

一生懸命に祈りを捧げ、神がそれに応える準備をしかかったところで、その人が立ち去ってしまうということがよくあります。自分とは何なのか、その本質を知りたいという願いに対する反応は瞬間的に得られます。けれども、それを感じることを期待していなくてはなりません。自分が何なのかを知りたければ、自分が純粋な目覚めた意識であり、どんな二極性にもとらわれず、他人も自分も批判せず、どんな制約も持たない存在であることを、身体と心で感じたいと思うのなら、「心を静めよ」という命令を自分に与えることです。あなたのなかの”大いなる完全性”は、心の底からの願いが何であるかを、正確に理解しています。ですから、期待感を持って静寂のなかに身を置くとき、自分の本当の姿を体験できます。

あなたのなかの”大いなる完全性”、つまりあなたの魂はただ一つの目的を持っています。それは、神から分離した人間に「”一なる自己”しか存在しない」ことを教えることです。”大いなる一”(すべての根源であり本質であるただ一つのもの)があるのみです。あなたの人生に起こることのすべては、たとえそれがどんなにひどいことで、破局やみじめさをもたらすものに見えても、そうなるように導かれてきたのです。あなたが自分の内部に向かい、自分の本質を示してくれる静寂の次元に深く沈潜することを選ぶようになるにはどうすればよいか、それを知っているあなたのなかの”大いなる完全性”が、そう仕向けたのです。

聖なる静寂から自己を切り離してしまい、今はもうざわついた心のおしゃべりしか聞こえてこないと気が付いたとき、人間は深い悲しみと孤独を感じました。そして、心のどこかで、どんな犠牲を払ってもいいから、”大いなる一”のあの静寂をもう一度感じたいと望みました。悲しみや苦しみが役に立つのは、悲しんだり苦しんだりしているときに、人は神を求めるからです。ほかのことはすべて忘れても構いませんから、次の事だけは覚えておいてください。あなたに苦しみが訪れるのは、裁く心が生んだ矛盾した人間像を捨てて、人間の真実の姿を深く感じ、それを意識の中心に置くようにと促すためです。

悲しみや苦しみのない静寂に生きることを意識的に選択すれば、悲しみや苦しみは必要ではなくなるのではないでしょうか。温かくて優しい意志を通して、神を見つけることもできます。苦痛から逃げる必要はないのです。ただ喜びや美しいもの、すばらしいものに向かって走っていけばよいのです。あなたが選ぶことです。地球は二極性をもつ惑星ですから、苦痛を感じて神を見つけることができるのでしたら、喜びを通して神を見つける道もあるはずです。

2018-09-22 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

時間は幻想


●「時間」も「限界」も幻、あなたはあらゆることができる

時間という陥穽に嵌まらないことです。時の流れのままに歳をとり、老いていく、なんてウソなのです。そうなるのは、マトリックスソフトウェアに書きこまれた「老化ソフト」をうっかりダウンロードして、五感の意識が、時間は経つものの、人は歳をとるものを鵜呑みにしたからなのです。思い込みの力、構造物です。そもそも、実際には時間などないのです。過去も未来もない、無限の今があるだけです。老化とは、幻を経験しているに過ぎないのです。そこを弁えていないと、直観的なひらめきはあなたのところにはやって来ません。なぜなら、それは時間の存在しない領域にあるからです。直観はそれを必要とする瞬間、すなわち「今」やってくるものなのです。したがって因果応報(カルマ)などというオドロオドロしたものも存在していないのです。ひとつの可能性としてあるのは、五感による振動的・数学的構造物においてのみです。何度も繰り返しますが、あらゆるものは「ひとつ(ワンネス=全一)」なのです。

同じ趣旨の興味深い記事を「ニュー・サイエンティスト」誌で見つけました。「量子重力コンピューター」の開発についての記事ですが、こう書かれていました。「・・・もう原因と結果という概念には悩まされなくなる。チックのあとにタック、あるいはインプットのあとにアウトプットが続くという陳腐で滑稽なルーチン的思考の論理は、量子重力の世界では全く適用されなくなる」時間と同様に空間もないことを知るべきです。こんな歌がありましたね。「君はどこにもいるのにどこにもいない。それが君のいるところ」。また、ウィリアム・ブレイクの詩。

一粒の砂に世界を見出し
一輪の花に天を映す
手のひらに無限を抱き
ひと時に永遠をつかむ

そうです。「空間」とは実在せず、肉体コンピューターが解読した幻なのですから。当然、その空間の「移動」も脳が電気信号を解読しているだけで、幻です。ブレイクの詩の境地に達すれば、もはや絶対的なものも限界も、ドグマもなくなるのです。あるのはすべての可能性だけです。そこであなたはあらゆることが出来ることについてです。「私にはそんなことは出来ません」の本当の意味は、「私にはそんなことが出来るとは思えません」なのです。あなたの素晴らしい可能性を解き放つためには、自分の精神から、限界だとかの感覚を駆逐することです。「私にはできない」という感覚こそが、まさに「私はしない」という無駄な経験を積むことになるのですから。

この世界の操作者は、私たちを催眠術で繰り返し罠にかけ、「限界」と「限りある時間」という否定的な感覚を執拗に植え付け、そのように私たちをコード化させてきました。「限界」も「時間」も幻なのです。そうして、本来持っていた無限の知覚を長い間、記憶喪失させてきたのです。この事実により多くの人が気づき、十分理解するようになれば事態はずっと変わってきます。

2018-09-16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

無限の愛・無限の認識と幻想


死は暗く鬱陶しい究極の恐怖であると長い間、意図的に吹き込んできた勢力があります。死のみならず、あらゆるものに恐怖を抱かせる。人は何かを恐れているときが最も支配しやすいからです。とりわけ宗教は犯罪的な働きをしてきました。死への恐怖を冷酷に操作し、宗教への服従を強いてきました。何千年ものあいだ、宗教は人々に大きな悲しみとトラウマを与え、大切な人が行くのは天国から地獄か、あるいは暗黒の忘却の世界なのかと悩ませてきたのです。ヴァン=ロメロ医師はなかなか的確なことを言っています。

「臨死体験で重要なのは、死を恐れなくなることだ。自分たちの意識が生き続けること、そこに継続性のあることを経験するからである。肉体が死んでも、命とアイデンティティは終わらない。ただコートを脱ぐような感覚である」
「脳は意識を生み出したり記憶を保存したりはしない。脳はテレビのようなもので、特定の電磁波に同調して、それを映像や音声に転換しているのである。私たちの覚醒意識、すなわち日々の活動中に持っている意識は、存在するすべての情報を、私たちが現実として経験している単一の真実にまで還元する。しかし臨死体験中は、人は肉体や覚醒意識の制限を受けないために、はるかに多くの現実を経験することになるのである」「その瞬間の人たちは、意識が以前よりもはるかに広くなっている。極めて明晰に考えることができ、ごく幼いころの記憶まで思い出せる上に、身の回りのあらゆる人やものとの深いつながりを経験することができる」「DNAは情報の送受信機に過ぎない」「意識こそが命の基盤であること、命とはまず思いやり、共感、そして愛」

その通りです。コンピューターは埋葬されたり火葬されたりするが、パワーを供給した認識は存在し続けるのです。脳は情報の送受信機です。「無限の愛」すなわち「無限の認識」こそが唯一の真実であり、それ以外はすべて幻なのです。本当は愛しか存在しない。それ以外のガラクタは、存在しているように見えるだけで、すべては偽りの中にあるのです。

2018-08-31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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